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いやいや信号の赤はとまる赤でしょw 

しかし、さすがに餓死者の激増が問題になり、毛沢東氏は責任をとって、国家主席の座を劉少奇氏に譲りました。しかし、国家主席の座は譲ったものの、権力の源泉である共産党主席は保持し続けました。

 劉少奇氏は、トウ小平氏と共に、疲弊した中国経済の立て直しに成功します。こうなると、毛沢東氏が保持していた共産党主席の座も危うくなります。劉氏、トウ氏に対する憎しみが芽生えます。

■文化大革命という名の権力闘争

 当時、毛沢東氏に次いでナンバー2だった林彪氏は、後継者の座を狙い、毛沢東氏へのごますりを始めます。毛沢東氏の発言などをまとめた『毛沢東語録』を発行し、毛沢東氏の神格化を進めたのです。

 毛沢東氏を取り上げる時、国営メディアは、「偉大な指導者」「偉大な教師」「偉大な統帥者」「偉大な舵(かじ)取り」の4つの形容をつけるようになったのです。

 毛沢東氏は、この個人崇拝の動きを利用します。共産党主席の座を守り、失われた国家権力を奪回するため、共産党の外の勢力を利用したのです。こうして引き起こされたのが、「文化大革命」でした。

 1966年6月、清華大学付属中学校(日本の高校に当たる)の生徒たちが、体制を批判する壁新聞を貼りだし、自らを「紅衛兵」と名乗りました。「紅」つまり共産主義を守る衛兵と名乗ったのです。

 8月、毛沢東氏は生徒たちに「造反有理」の言葉を贈ります。「造反することはいいことだ、意味がある」という意味でした。これが報じられると、全国各地で、若者たちが紅衛兵を名乗り、体制批判や共産党幹部に対する批判を始めます。「いまの体制は、革命の精神を忘れて堕落した。新たな革命が必要だ」というものでした。

 『毛沢東語録』を振りかざした若者たちは、街に繰り出し、街を「革命化」します。北京の銀座と呼ばれる「王府井大街」(ワンフーチン)は「人民路」へと改名させました。

 成都の「陳麻婆豆腐店」は「文勝飯店」(文化大革命の勝利)という名前にされてしまいました。

 女性のパーマは「ブルジョア的だ」とされて、パーマ姿の女性たちは街中で髪を切られてしまいます。また、スカートはズボンにさせられました。

 紅衛兵たちは宗教を一切認めず、寺院は破壊されました。

 信じられない行動にまで出ました。交通信号の赤が止まれの印であることに文句をつけたのです。「赤は共産主義の色であり、前に向かって進めという意味だ。赤で止まれはおかしい」と主張し、交差点の赤信号で止まらないように指示を出します。このため交通事故が相次ぐようになりました。
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